映画徒然日記

雨の日に映画を見るのが好きだ。
晴れの日も悪くない。肌寒い日も、うららかな日も、凍えそうに寒い日も、うだるような暑さの日も、結局のところどんな日も、やっぱり映画はいい。

お金がなくて食費や交際費は削っても、映画費だけは削れないな。本に関しては図書館ヘビーユーザーでほとんどタダで読ませてもらっているけれど。。
映画は自分にとって思想と創作の栄養分。すぐには役立たなくても、堆肥になって、きっと自分を花開かせてくれるものだと信じている。

なんでテレビのドラマやアニメじゃいまいちハマれないんだろうと考えたことがある。凝縮されてるのがいいんだという結論に至った。好みの問題ではあるけれど、私は短くまとまっているのが好きなんだ。小説も、長編より短編が好き。

歌は、だいたいがおよそ5分に短くまとめられている。何回かに分けられている連作の歌なんてのはほとんど存在しない。わずか5分の間に世界観がぎゅっと凝縮されて、完結している。そんなに短い時間なのにすごく胸に染み入り、余韻を残したりする。その潔さというか、様式美というか、魔法みたいなところに魅了されるのかなと思う。

▲+▲

さて、2020年に見て良かった映画のご紹介。
私には夢を追いかける系の映画が俄然刺さる、ということを改めて知った。

『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語 』『ワイルド・ローズ』『ミッド90s』『浅田家!』『トキワ荘の青春』など・・・小説家、ミュージシャン、スケーター、カメラマン、漫画家・・皆それぞれに夢を追いかけている。

それから、香港映画『淪落の人』がとても良かった。

「淪落」という言葉、初めて知ったけど、「おちぶれること」だそうで。
淪落、いいね。負け猫的に惹かれるワード。

老齢に差しかかろうとしている半身不随の車椅子の男と、その男を介護する外国人労働者のフィリピン女性の交流。正直言ってそんなに興味を惹くテーマや人物設定ではなかった。映画の始まりも単調で、詫びしく、退屈だ。なのに少しずつ少しずつ、心に沁みてきて、介護人のエヴリンの夢が写真家ということが明かされ、その夢に物語がフォーカスしだすと、俄然良くなってくる。

思いがけぬ困難にあい落ちぶれてしまった2人の人生が輝きだす瞬間を、映画は切り取っていて、それは心にそっと光を灯すものだった。『夢を追う者』と『夢を追う人を応援することが喜びとなる者』が対になれば、世界はうまく回るのにな、と強く思った。そして、人はそのどちらにもなれるし、なるべきと思った。その夢や、夢を応援する方法がどんな些細ことであったとしても。そうすることで、世界は今よりもっと輝きだすと思った。

これがデビュー作になる若干32歳の女性監督、オリバー・チャンがいいことを言ってます。
「背景や文化がまったく異なる見知らぬ2人が、数奇な運命の末にめぐり合い、互いの人生の中で最も親しい人になる…それはきわめて美しいことです。」

「それはきわめて美しいこと」って日本ではあま使われないような大袈裟な表現だけど、本当に、きっとそれは人生におけるきわめて美しいことだ、と思った。しかし同時に、その縁にズルズルと引きずられたまま安穏と生きていくのではなく、もっと高みを目指すべく、名残惜しくてもいったんその縁を手放して、新しい環境に飛び込むことの大切さもひしひしと感じた。

▲+▲

そして、『82年生まれ、キム・ジヨン』。
これは、ささやかな夢を追うことすら許されない、社会の厳しさを描いた辛い映画だった。

本来、最も信頼し応援してくれる存在でなければならないはずの家族が、自分の意向を汲み取ろうとせず、家に縛り付ける古い価値観をナチュラルに押し付けてくるのだ。意地悪でもなんでもなく、それが当たり前のこと、なんなら本人のため、良かれと思ってやってるからタチが悪い。主人公は真綿で首を絞められるようにジワジワと抑圧され、異議を唱えることができず、ついには心が壊れてしまう。

主人公の苦しみはまさに、自分の能力を生かせないことの苦しみだった。
どんなに愛する家族がいたとしても、『家族への奉仕』よりも『自分の能力を生かして勉強し、仕事をしたい』という希望がある限り、その思いは尊重されなくてはいけない。
愛する家族のための家事や子育てに生きがいや幸せを見出す人もいるけど、そうじゃない人だっているのだ。

『自分の才能を伸ばすために、時間とお金をかけて勉強・訓練をしたい』
そして、
『自分の能力を生かして仕事をして、お金を稼いだり社会の役に立ちたい』

この2点は人間にとって三大欲求の次にある、非常に強い欲求なんだと思う。
それはまた、崇高な欲求であり、人類が進化していくために必要とされるものだから、全ての人が、自分も周りも含めて大事に扱うべき欲求のはずだ。

それなのに、その欲求が満たされないことで苦しんでいる人が、世の中にはまだたくさんいる。社会の現状は目に見えて改善していってはいるけど、私だってまだ苦しみの渦中だ。

映画館のバイトで、どんどん学生バイトに追い抜かれていった。
周りは数ヶ月もたてばチケットやコンセッションなど次々に違うポジションに移り新しいことを覚えるのに、私はついぞ1年半、モギリと掃除以外の仕事をやらせてもらえなかった。
映画は好きだけど、映画館の接客業は自分にはまるで向いていなかった。
周りの人が簡単にこなせることを、どうしてもうまくこなせなかった。

都心オフィスでのアルコール消毒液補充のバイト。職場の人たちは優しく、怒られることもないし、1人で気ままにできるお仕事で、給料も良い。新社屋はびっくりするほどオシャレできれいだし、社食も安いのに美味しく、週一の楽しみですらある。にも関わらず、とくとくと消毒液を補充するたび、自分の心の大事なものがすり減っていくような感覚がある。

文章を書いたり写真を撮ったりすることは得意だと思っていた。その能力を少しは生かせていると感じる空き部屋取材のバイト。けれど5年も経つのにその仕事では最低賃金しか稼げていない。
誰でもできる仕事ではないけど、残念ながら代わりはいくらでもいそうな仕事だ。それも、私よりもっとスピーディーにコスパ良くこなせる人が。

何かもっと、他の人には代えることができない自分の才能を使って、生活の糧にしたい。

不得意なことで無理したり、人脈に助けられラッキー的にお金を稼ぐのではなく、何か自分の得意な、好きなことで稼ぎたい。

でも、そんなことを言ったら、それは甘い考えだとたしなめる人がいた。仕事は仕事、好きなことは好きなことで別にすべきだという。
苦しかった。
もちろんそのように言ってくる人は、好きなことで稼いではいない。ひいひいと苦難に喘ぎながら心と体に鞭打って働いている。

たとえ人間関係に恵まれていたとしても、1日の大半を好きじゃないことに費やし、時間と体力を無駄にしたくない。
働かず、その時間を創作や勉強の時間にあてたい。

細々と曲を作りYouTubeに投稿などし続けているけれど、音楽で金銭を得たことは1円たりともない。
どうしよう。どうしたらいいのか?

妄想するのは、YouTubeやツイッター、そしてこのブログなんかでも、匿名で1円から投げ銭をもらえるような世界になること。
広告収入ではなく、投げ銭を送り送られ合うことで経済が回る世界。
それぞれの収入によって、投げ銭できる金額は1円の人もいれば、1万円の人もいる。くだらない広告に自分の投稿を汚されるのも嫌だし、一律料金で販売することでわずかな人にしか見てもらえないのも何か違う。本心からいいね!と思って、この人のこういう投稿をもっと見たい、応援したい、そう思えた時に自分のできる範囲で投げ銭を送る。しがらみを避けるために、YouTubeのいいねボタンのように必ず匿名で。よく考えたらそれが一番良い方法なんじゃないかと思う。

仮に1人1円だけであっても、10万人の人に支援してしてもらえれば、生活が成り立つ。そういう世界にならないかな。そしたらもっとモチベーションが上がるのになぁ。。

▲+▲

先日、生命保険を解約して28万円ふところに入った。
知人から勧められて義理で保険に入ってたけど、かれこれ15年間、風邪ひとつひいてないし、薬も飲んでない。体だけはすこぶる健康だし、守るべき家族もいない私には、保険はもともと必要なかったんだな、と思う。

解約したお金で高額なカメラを買った。
このカメラで何ができるか。
そして健康、これが欲しくてたまらない人もいるということをいつも忘れずにいたい。

健康なうちに、私の才能を生かしてお金を稼ぎたい。
たとえ健康じゃなくなったとしても、その範囲でできることをあきらめないでし続けたい。
一生勉強しながら、才能を生かして何かをし続け、映画を見て音楽を聴いて、誰かの夢を応援し、応援され、草花にふれながら幸せに暮らしていたい。










お気軽にコメントどうぞ♪