ピアノ弾き語り教室

これまで語ったことがなかったけれど、音楽活動を始めて1年半程の間、ピアノの作曲および弾き語りを習っていた。今日はそのことについて。

音楽の下地としては、母親が家でピアノ教室を開いていたため、幼少の頃から母親からピアノを習っていた。
加えて、5才の頃から2年くらい、ヤマハの子供音楽教室にも通っていた。
ヤマハは小学生になるとすぐ辞めてしまったし、お母さんに教えてもらう時も楽譜を読むのが苦手でうまく弾きこなせなかったので、いつもストレスを溜めてキーキー言っていたように思う。そして、よく一人でデタラメばかり弾いていた。

それが私の作曲の始まり。

それらのメロディーの断片は記録していなかったので、作品として残ることはなく、ほぼ全て消えてしまった。
でも、何もないところからいきなり弾けるようにはならないんだろうな。中学生の時も、高校生の時も、大人になってからも、飽きることなくいつもピアノに触れデタラメを弾いてきたからこそ、ある日突然、すっと作曲活動に入ることができたんだと思う。

そんなわけで、さかのぼること3年前、無職になったことをきっかけに2015年5月からYouTubeへオリジナル曲の投稿を始めたところ、8月にメールでライブ出演の打診があり、11月1日に人生初ライブにしていきなり世界的バンドコンテスト(笑。ドイツで決勝があった。)の予選出場が決まった。色々決めた後にえらいこっちゃと焦り出し、3ヶ月後の人生初ライブに向けて、近所の音楽教室の門を叩いのだった。。

作曲クラスとボーカルクラスとあったのだけど、弾き語りならボーカルクラスがいいでしょうと薦められ、女性講師のボーカルクラスへと。

ちなみに、静岡で7年間勤めた会社を辞めて東京に戻ってきて1年程、実家暮らしで全く働かないニートでした。Web制作の職業訓練校に通いながら失業保険をもらい、その後はヤフオクなどで小金を稼いだり庭でハーブや植物を育てたり、思う存分眠ったり、図書館通いに徹する日々。家族には特に文句を言われなかった。家庭の特殊性についてはのちに語るとして、今思えばずいぶん長い夏休みだったなぁ…。

隔週土曜日、自転車で30分かけて通うレッスンが、当時の私の一番情熱を傾けられる事柄だった。先生に作った曲を披露しなくてはいけない、その締め切りがあるがゆえ、校了させることのできた曲たち。「ほんとの涙」「ひとりぼっちのディスティニー」「言葉を交わしたこともなく」「うちに帰ろう」「かたっぽ」。。

ニートから抜け出しようやく映画館のバイトを始め、その半年後の一人暮らし開始を機に音楽教室を辞めて以降は、曲の断片だけがぷかぷかと頼りなくただようばかり、ちゃんとした完成品はひとつもできていない有様だ。

先生を介して出会った方々、ピアニストの谷川賢作さんや、広瀬俊之さん。

発表会では『うちに帰ろう』を広瀬俊之さんに超絶素敵にアレンジしてもらったピアノ伴奏で歌ったり。谷川賢作さん伴奏の合唱に誘われ、阿佐ヶ谷ジャズストリートに出演したり。憧れの詩人の谷川俊作さんと賢作さんの親子共演コンサートを見に行ったり。

 

先生は優しく熱心に指導してくれて、素敵な出来事やチャンスをたくさん授けてくださった。

でも、一人暮らしを始めたことで通うのが遠くなり、月に一万円の出費が惜しくなってきたのと、毎回先生のライブに誘われるのもだんだん苦痛になってきて。もしよかったらというスタンスでも、積もり積もると心の負担になってった…。
しかしまぁこれって音楽活動・創作活動の輪に入る上では避けて通れないことなんだろうなぁ。。

あと、マイクを使わせてもらえなかったのだけど、マイクでも練習したかった。(いつもライブでマイクをうまく扱えずオタオタしてしまっていたので)
合唱はとても素敵な経験だったけど、継続的してやっていくほどには情熱を持ち合わせていなかった。
ピアノの伴奏やコードのことが最後までよくわからず、右手でメロディーを弾いてしまう問題が解決しなかったため、もっとピアノに詳しい人の元で学びたくなった。

…色々と思うところがあったけど、辞めてからけっきょく何も行動を起こせず、ライブもやらなければ新曲も作れず、今に至るのであります。

殻を破って、行動を起こす。
それができずに、時が過ぎ。
なんで完成できないんだろう。
足らない。足らない。

いっこうに創作ができない一方で、最近は好きな文学作品の朗読にハマっています。
小川未明の「野ばら」
中原中也「月夜のボタン」「湖上」

湖上では、BGMにピアノ弾いてます。
YouTubeにあげているのでよかったら聞いてくださいほっしぃ

もっと研鑽を積んで、いつか銀河鉄道の夜にも挑戦したいなぁ。

 

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