
ジョナサン・リヴィングストンは本当に大したカモメだ。食べることより飛ぶことの方が好きで、自分の信念に忠実で、向上心が高く、広い心と大きな勇気を持っている。そんな彼を他の鳥たちが偉大なカモメとか神聖なカモメなどと言ってあがめても、「きみたちと同じなんだ」と言って、決して天狗にならない。飛ぶことに関して最初からズバ抜けた才能を持っているのに、現状に甘んじず、無限に努力し続ける。とにかく非の打ち所がない。
しかし、私はこのジョナサンをどうにも好きになれなかった。始めはどうしてなのか分からずなんとなくそう思っていたが、解説を読んで理由がはっきりとした。この本の翻訳者である五木寛之さんは、『異端と反逆を讃えているようで実はきわめて伝統的、良識的であり、冒険と自由を求めているようでいて逆に道徳と権威を重んずる感覚』と書いている。まさにその通りだ。
一見、世間体など気にせず好きなことだけを追い求めているカモメくんが、未知の世界を求めて大海をはばたく輝かしいヒューマン(バード)ドラマのように思われるが、そこには奇妙なズレが生じている。どこか宗教的な臭いが漂っているとでも言おうか。ジョナサンには恐ろしいことに、人間味が全く感じられないのである(カモメだけど)。
自分を追放したカモメに対して恨みは一切なく、彼らを助けてやらなきゃと思ったり、もう少しで殺されかねないほどに暴徒化した鳥たちでさえ憎むことなく愛し続けたりと、この本には聖書の引用かと疑ってしまうような箇所が数多く見受けられる。それも後半に行くにつれ、宗教っぽさが色濃くなっていくようにできている。
そんな巧妙なしかけに騙されて、ついカモメのジョナサンのようになりたいだなんて思ってしまうのだ。偶像崇拝の対象にまつりあげられた神を讃えるのに似ている。しかし私は無信仰者なので首をかしげてしまう。
なんとういうか、ジョナサンは確かに素晴らしいやつだけど、友達にはなりたくないということだ。何もかも完璧で、常に正論だけを言い、いじめられても嫌な顔せず、365日休みなくストイックに鍛錬に励んでいるのだ。『無限なんですね』とか言って。
もしカモメのジョナサンが、もっと泣き虫で、バカで、お調子者で、それでも飛ぶことが好きでしょうがなかったとしたら?もっと感動したかもしれない。
完璧主義者は、いつか無心の子供に敗れる。
以上、高1の夏休みの宿題の読書感想文でした。宗教を毛嫌いしてた頃。締切前日に変なテンションで適当に書いているものと思われます。ラストの一文が取って付けたようでひどい。。けど、完璧主義に対する危機感は子供の頃からあったんだ、と少し驚いた。人生における課題なのか?(ꙭ;)
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この読書感想文の掲載にあたり『かもめのジョナサン』について調べてみたところ、新事実が発覚した。1970年に発表されてから実に44年の時を経て、2014年に第4部が追加され、完全版として新たに出版されたのだという。知らなかった。作者のリチャード・バックが44年前に封印していたという幻の第4部。気になって図書館で借りて読んでみた。
高1の時はジョナサンに対してかなり批判的に書いたけど(五木寛之の解説に引っ張られている感は否めない)、今回はそこまで嫌な感じはなかった。むしろジョナサンには尊敬できる点がたくさんあった。
歳をとり功績を評価されるようになっても、権威をふりかざしたり虚栄心を満たすことにはまるで興味がなく、ただ自己の向上と、他の鳥の進化を後押しするため自分の経験を伝えることだけに真摯に取り組む姿勢といったら、今の政治家たちに爪の垢を煎じて飲ませたいほど(鴎の爪として売り出してほしい)。意識高い系の発言がちょっと鼻につくけど、素晴らしい人格者(鳥格者)だし、私にもこんな師匠、メンターがいてくれたらなぁと思った。
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そして、新たに追加されたパート4。消え去ったジョナサンが他の鳥たちに神として崇め奉られている世界について描かれていて、たいへん興味深かった。匂わせ程度だった宗教っぽさがホンモノになってて笑っちゃったけど、宗教自体に興味があるから引き込まれた。
ジョナサン本人はあらゆることを削ぎ落とし、ただ一つ、飛ぶことだけを追い求めていたというのに、ジョナサン教において信者の鳥たちは飛ぶことよりも儀式や教学の方を重んじるようになってしまう。ジョナサンという崇拝の対象を手に入れた鳥たちは、その教義(本人亡き後に付け加えられた解釈)に触れるだけで満足してしまい、次第に飛ぶことを怠るようになってしまうのだ。インスタントに充足感が得られるから、苦労してまで実践に移すモチベーションが起こらないなんて、滑稽なことだ。
何よりも実践が大事なのに、失敗を恐れ理論ばかり学んで満足してしまうことって、多くの人が陥りがちな状況だよな、と気付いた。実践は初めのうちなかなか成果が得られないから、手軽に達成感が得られる理論の勉強がやめられなくなっていく。どんどん頭でっかちになっていって、口だけは達者になるけど、その人自身は何も達成していない、ということが周りを見てもけっこうある。これじゃいかんと気付きにくいのは、理論を学ぶにしても、その会場に行くとかテキストを購入しテストを受けるなどといったある程度負荷のかかる能動的な行動が必要とされるから、それでやった気になっちゃうのかもしれない。
前回の日記でインプットとアウトプットの問題について書いたけど、この本でもまったく同じことを警鐘しているのだった。理論と実践とは、すなわちインプットとアウトプット。読んだり見たりするだけでなく、私にとっては書いたり作ってそれを発表するという、めんどくさくてなおかつ勇気も必要とされる行為をやり続けることでしか、本当の意味での成長はできないということ。痛いとこついてくるな〜と思った。
いっさい実践しないという人はいないけど、理論9で実践1とか理論8で実践2はうようよいる。だけど極端なことを言えば、まったく理論を学ばなくとも、実践だけをひたすらにやり続けた方が夢を叶える可能性はだんぜん高まるんだよなぁ。もちろん投げっぱなしではなく、フィードバックをもらえる前提があればだけど。(ブログでの持論の垂れ流しは微妙か、、でも実績を積み上げられるのはいいと思う)

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と、ここまで書いた文章を後日見直して、やっぱり違うかもと思った。実践ばかりでもほとんど成長しない人というのもいるな、と。ずーっと同じことの繰り返しで安定した状態を好み、自分のやり方を変えることなく上達や成長をしていかない人もいる。経験だけで変わっていける人もいるけど、意識して他人の考えを取り入れたり新しいことを学んでいく姿勢がないと、考えが古いまんまで凝り固まってしまう。
インプットとアウトプットの関係と同様、やっぱり実践だけでなく、理論:実践を2:8〜4:6くらいでやった方がいいぞ、という結論に至りました。皆さんはどう思われますか?
とかなんとか言いながら、理論10割でも唯一無二の孤高の存在になれる可能性もなきにしもあらず、とか思ったりもします。。「ザ・アウトプット」といえるような明確な成果物がなくとも、仕入れた知識を細々とたゆまず普段の生活や発言に活かせればいい場合だってあるし。
何にせよ完璧主義はいけません。今日も7、8割の出来でこの日記を校了できてほっとしています。皆さまにおかれましては、これからもここに時たま訪れ気分転換に私の戯言を読んでいってほしいなと思っています。読了ありがとうございました。
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夏が終わる。。