ブライアン・ウィルソン追悼〜ハタチの夏のこと〜

ハタチの夏、ビーチ・ボーイズをヘビロテで聴いていた。

The Beach Boys

カリフォルニアに住む兄弟を中心に、その従兄弟や同級生らで結成されたアメリカのポップロックバンド。

まだケネディ大統領暗殺もベトナム戦争もアメリカに暗い影を落としていなかった1960年代初頭、ビーチ・ボーイズは笑顔を振り撒き登場した。父親のサンダーバードを乗り回すガールフレンドと、サーフィンやホットロッド・レースに夢中な若者たち。それは豊かなアメリカの象徴そのものだった。

左後ろから三男カール、従兄弟マイク・ラヴ、長男ブライアン、左前から次男デニス、同級生アル・ジャーディン

カリフォルニアの陽気な気候。サーファーで賑わう西海岸の輝くサンセット・ビーチ。お揃いのシャツを着込み、身内で仲良くにこやかで感じの良い白人ボーイズたちの息の合ったコーラスによる、えも言えぬ美しいハーモニー、青春のきらめきを詰めこんだ初期のハッピーソングたち。そして『Pet Sounds』以降の、深みを増した芸術品のような名曲の数々。

イヤホンから流れる『Surfin’ U.S.A.』や『I Get Around』の軽快なリズムに乗って、『Don’t Worry Baby』や『Please Let Me Wonder』の流麗な調べに合わせ、頭の中で60年代カリフォルニアの明るい陽光の下で青春を送る自分をイメージした。キラキラした波、夕陽に染まる砂浜、ホンダのバイクやかっこいいオールドカーに乗って遊びに繰り出し、仲間たちと楽しく笑い合う瞬間――

ハタチの頃、私は引きこもりがちで、恋愛経験もゼロ。念願だった美大に通っていたのだけど、第一志望の映像学科、第二志望の映画学科に落ちた末の、第三志望のデザイン学科だったこともあり、モチベーションに欠け授業はサボりがち。冴えない陰キャで人間関係もうまいこといかず、意気込んで入ったアニメーション制作サークルも女の子の頭が爆発する奇怪なショートフィルムを作った後すぐに辞めてしまい、予備校時代から続くごく狭い交友関係以外は自室に引きこもり、一人で映画を見たりネットの掲示板に書き込んだり漫画を描くだけの日々。そんな鬱屈とした青春を送る中で、ビーチ・ボーイズを聴いてる間は気分が高揚し、幸せな気持ちになった。ビーチ・ボーイズの音楽は確実に乾いた私の心を潤してくれた。

なんといっても、3兄弟の一番上で主たる作曲者のブライアン・ウィルソンによる、親しみやすくキャッチーなのに幻想的で奥深いメロディ。それを繰り返し体に染み込ませ、うっとりしていた。

初期の陽気なハッピーソングだけじゃない。ブライアンがわずか23歳で作り上げた、恐ろしく研ぎ澄まされたイマジネーション溢れる名盤『Pet Sounds』も聴き込んだ。神と交信して作ったんじゃないかっていうくらい先鋭的で荘厳、それでいて美と多幸感に溢れている、完璧なバランスで成り立っているアルバムだ。音楽評論家たちからこぞって評価されているだけのことはある。発表当時は新しすぎたのか全米チャート10位に終わったが、ビートルズのポール・マッカトニーら音楽関係者は絶賛。50年以上経った今なお、2020年にローリング・ストーンズ誌が行った「最も優れたアルバム」ランキングにおいて2位を記録するなど、時代を超えて愛されている。

私がとりわけ偏愛した曲は『Wouldn’t It Be Nice』。初めて聴いた時はあまりの美しさに衝撃を受けた。これは魔法に違いない思った。2分半であっという間に終わってしまうのが惜しくて、何度も何度もリピートした。改めて聴いてもやっぱりすごい。ハートを鷲掴みにされる感じがある。イントロが始まりドラムが「ドンッ」と打ち鳴らされ、アドレナリンの放出が開始。30秒くらいのところのハーモニーで早くも昇天しそうになり、そこからも畳み掛ける天界の調べ、めくるめく陶酔感。

「Wouldn’t It Be Nice」。和訳すると「素敵じゃないか?」って問いかけるタイトル。「一緒に暮らせたら素敵じゃないか?」って恋人に語りかける、プロポーズ・ソングとも言える、なんとも多幸感に満ち溢れた直球のラブソングだ。

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ハタチの夏、大学三年の編集ゼミで雑誌の創刊号を作るという課題があり、私はビーチ・ボーイズを特集した雑誌を作ったのだった。それをきっかけに、村上春樹の影響で聴き始めハマりだしていたビーチ・ボーイズについて更に深掘りして調べることとなり、ますますビーチ・ボーイズに惹きつけられていった。

仲良く顔を寄せ合って微笑むスチール写真、『ザ・ビーチ・ボーイズ』というバンド名から抱く”海と音楽を愛する陽気で幸せなファミリー”というイメージとは裏腹に、アルコールやドラッグに溺れ、若くして溺死や病死、仲間割れを起こしメンバー間で訴訟をし合ったり、曲作りの主柱のブライアンが精神疾患になり長期離脱したりと、かなりヘビーな内情があった。

しかしそんな逸話も伝説を強化したように思う。それからブライアン・ウィルソンに対する『天才』という称号も。こうやって長文で語りたくなる多層的な魅力がビーチ・ボーイズにはあるんだ。

ブライアン・ウィルソンの人生を振り返る〜天才の光と闇〜

先日、ブライアン・ウィルソンが82才で亡くなったというニュース。それであの頃のことが一気に頭を駆け巡った。ビーチ・ボーイズの音楽を改めて聴き直してみると、相変わらず素晴らしくて、50年以上経っても全然古臭く感じない。今の音楽に欠けてるものをたくさん持っているし、ノスタルジーの魅力で昔より更に輝きが増している。というか、正真正銘、ビーチ・ボーイズはすごいんじゃないか。ブライアン・ウィルソンは本物の天才なんじゃないか。そう思った。ハタチの頃に、ビーチ・ボーイズの音楽を体に染み込ませていてよかった。多分それはわずかでも私の作る音楽に影響を与えていると思うから。

ここからはビーチ・ボーイズの魂でありポップミュージックの歴史を変えたブライアン・ウィルソンその人をGROKの力を借りて深掘りしていく!

ビーチボーイズ誕生〜西海岸の夏の海と車と青春を歌うファミリーバンド

ザ・ビーチ・ボーイズは、1961年にアメリカ・カリフォルニア州ホーソーンで結成されたロックバンドだ。中心メンバーはウィルソン三兄弟――ブライアン、デニス、カール――と従兄弟のマイク・ラヴ、ブライアンの高校の同級生のアル・ジャーディン。彼らは1960年代初頭の豊かなアメリカを象徴するような、陽気で自由でロマンチックな音楽を世に送り出した。日本の私たちから見ると、西海岸のキラキラのビーチ、車やバイクを乗り回し、男女混合で遊びに興じ華やかに過ごす青春……ハリウッド映画みたいな憧れの世界だ。

まるで西海岸のサンセットのように温かく、聴く者の心を一瞬で掴む極上のハーモニー。それにブライアンのキャッチーで美しいメロディも相まって、カリフォルニアのサーフカルチャーをテーマにした『Surfin’ U.S.A.』(1963年)や『I Get Around』(1964年)などのヒット曲でビーチ・ボーイズは瞬く間に全米のスターとなった。

ちなみに、結成当初のバンド名は『ペンデルトーンズ』(マイクが当時流行していたシャツから付けた)。デビューシングルのクレジットで勝手に『ザ・ビーチ・ボーイズ』に変えられていたという。そんなことある?!と思ったけど、まだみんな10代(末っ子のカールは15歳!)と若すぎたゆえか。でも正直、これに関しては勝手に名前を変えられて本当に良かったと思う。”ビーチ・ボーイズ”という名前の、圧倒的キャッチーさと掴みの良さは、”iPhone”とか”サザエさん”に通じるものがある。60年代後半になると、「子供っぽい」「時代遅れ」「ダサい」と若者に揶揄される要因にもなったけど、長い目で見ればこの名前だからこそ、これまでに何度もリバイバルブームが起きて、世界中で広く愛されるバンドになったとも思う。

青春のきらめきを閉じ込めたサウンド、そして夏が終わる切なさ。

ビーチ・ボーイズの魅力は、なんといってもファミリーだからこそなせる息の合ったコーラスによるめちゃくちゃ美しいハモリと、ブライアン・ウィルソンの天才的なソング・ライティングにある。『Surfin’ Safari』や『Fun, Fun, Fun』といった初期のヒット曲は、軽快でキャッチーなメロディと、サーフィンや車をテーマにした歌詞で当時の若者の心を掴んだ。だけど、彼らの音楽は単なる「サーフミュージック」にとどまらない。ブライアンの作るメロディには、複雑なコード進行と緻密なアレンジが織り込まれ、聴くたびに新たな発見がある。

ジョージ・ルーカス監督の1973年の映画『アメリカン・グラフィティ』のエンディング曲でも使われた『All Summer Long』も隠れた名曲。メロディは一見地味でシンプルだけど、夏の終わりを惜しむノスタルジーが滲み出てる。コード進行は穏やかだけど、マイナーコードをチラッと入れてセンチメンタルな余韻を残す。ブライアンは明るいポップスの中に甘くほろ苦いスパイスを忍ばせるのがほんと上手いんだ。

冒頭の歌詞も大好きなんで紹介させて。

Sitting in my car outside your house
Remember when you spilled Coke all over your blouse

君の家の前で僕の車を停めて座ってた時
覚えてる?
君はブラウスにコークをぶちまけたっけ笑

もうこの冒頭だけで、恋人との甘酸っぱい青春の一ページが感じられるのがすごい。

ブラウスにコークをぶちまけたってことは、イチャイチャしていたからなんだろうな、キスしようとしてたのかな、とか想像が膨らむ。それから、車や服にコーラをこぼしても全然気にしないで笑っちゃう大らかさも感じ取れる。もし残クレで無理して乗ってる車だったら「何してくれる、残価が下がるだろうが!」って真顔でキレて彼女より車を拭いてるところ。親が車を買い与えてくれるのが当たり前で、若くても遊んだり着飾るお金がたっぷりあって、無理して労働する必要もない。なんの不安も感じずに青春を謳歌できる余裕。なんか……今の日本に足りてないんじゃないか、この余裕。

※ちなみに冒頭のこの歌詞はブライアンの実話。実際の飲み物はホット・チョコレートだったそうだ。(こっから後のキラキラ青春ストーリーはマイクによるもの)

しかしアメリカにも程なくして暗い影が忍び寄る。映画『アメリカン・グラフィティ』は、1962年のカリフォルニアの田舎町を舞台に、高校を卒業した若者たちが共に過ごす最後の一夜を描いたワンナイト・ムービーなのだけど、エンドクレジットの後日談でベトナム戦争に行って呆気なく死んでしまった登場人物が出てきて胸が締め付けられた。エンディングで『All Summer Long』が流れ「僕らの夏は終わらない」って歌っているのに、あんなにキラキラと輝いていた青春もいつか終わってしまうことを突きつけられる切なさ。でも、こういう「いつか終わってしまう」という儚さが映画を忘れがたいものにしているのかもしれない。ビーチ・ボーイズも同様に、悲運に見舞われたメンバーがいて、輝く青春には終わりがあって、そのことが胸が締め付け、聴く者を感傷的にしている側面もあるかもしれない。

ビートルズの衝撃、そして革新的アルバム『Pet Sounds』が誕生。

めっちゃビートルズっぽい『Girl Don’t Tell Me』。ブライアンが『Tichet To Ride』を真似て作ってみたやつ。かなり好き。

1964年、旋風を巻き起こしたビートルズのアメリカ上陸はビーチ・ボーイズにとっても衝撃だった。末っ子のカールはすぐにビートルズに夢中になって部屋にポスターを飾り父親に「裏切り者」と罵倒されるなどしていたが、ブライアンは最先端の音楽性と熱狂的な人気に危機感を抱き、自身の音楽を進化させる必要を強く感じた。

特に1965年のビートルズのアルバム『Rubber Soul』は、ブライアンに大きな影響を与えた。彼はこのアルバムの統一された芸術性と内省的な歌詞に感銘を受け、「アルバム全体が一つの物語のように感じられる」と語った。このインスピレーションが、ブライアンをポップの枠を超えた革新的な作品作りへと駆り立てたのだ。

トレードマークのストライプシャツからガラッとイメチェン、ビートルズ風の細身スーツを着込むビーチ・ボーイズもかっこいい!

フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる当時革新的だった録音手法(スタジオミュージシャン大人数での一発録りで音圧を上げる)や、クラシック音楽の要素を取り入れ、ブライアンは自身の創造性を極限まで高めた。1966年、23歳の彼は『Pet Sounds』を完成させる。

分業が当たり前だった当時の音楽業界で、ブライアンは自らプロデューサーとしても活躍。様々な楽器を用い、スタジオで何十テイクも録り直して、自分の頭の中にある完璧な音楽を追求した。すごいと思う。私はピアノ弾き語りでしかこれまで曲を作ってこなかったから、全ての楽器パートを統合した完成図が頭の中にあって、それを形にできるのって、やはり紛れもなく天才なんだろうな。

複雑なオーケストレーション、深淵で甘美なハーモニー、驚くほどリッチな音響が融合したこのアルバムは、ポール・マッカートニーが「これを超えるアルバムは作れない」と絶賛し、あの「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」を作る原動力となるほどの傑作となった。全米チャートでは10位にとどまりブライアンをひどく失望させるが、批評家や後世のアーティストからポップの金字塔として讃えられることになる。

幻のアルバムとなった『SMiLE』での大きな挫折

『Pet Sounds』の後、ブライアンはさらに野心的なプロジェクト『SMiLE』を構想。「Teenage Symphonies To God(神に捧げる10代のシンフォニー)」という壮大なテーマを打ち出したこのアルバムは、実験的なアレンジとコンセプチュアルな構成で音楽業界の常識を覆そうとした。しかし、過労、薬物依存、所属会社やメンバーとの意見対立、自身の精神的不調が重なり、レコーディングに一年以上費やした挙句、ついにプロジェクトは中断。お蔵入りとなってしまう。

『SMiLE』の販売中止はブライアンにとって大きな挫折となり自信を打ち砕いた。この失敗は彼の精神崩壊を加速させ、長期の引きこもり生活へと繋がった。それでも、35年以上経った2004年にソロ名義で『SMiLE』を完成させたことは、彼の不屈の精神と創造力の復活を象徴する偉業だった。

ブライアンはこの『Heroes and Villains(英雄と悪漢)』の幻聴に長年悩まされたという

このエピソードはとりわけ私の心を震わせる。幻のアルバム『SMiLE』は長きにわたり音楽愛好家の間では伝説となっており、結果として”完璧主義で繊細な天才”としてブライアン・ウィルソンを神格化することに繋がったように思う。『SMiLE』というわずか5文字のシンプルなタイトルも何か聖書のような神々しさで胸に迫って来るし、「Teenage Symphonies To God(神に捧げる10代のシンフォニー)」という、これまたキャッチーでミステリアスなテーマもすごい。自分の音楽作品にかける想いが尋常じゃなく、アルバムを一つの物語、宇宙に見立て、命を削るほどの情熱を持って、自らの創造性をそこに吹き込む、そんなことを未だかつてしたことない私は呆然とした。ダメだと思った。しかし触発され、ブライアンみたいに自らの創造性を、内から湧き出る情熱があるうちに、なんとしても形にしたいと思った。まとまらない頭を、散漫に湧き上がるアイデアを、しっかり集中して寄せ集め統合して、小宇宙にして世の中に提示できたら。

ここで文章を書くということもその一つだ。ここまで膨大な情報を構成して長文にまとめて書くのってすごくしんどいけど、書くんだったら薄っぺらいものじゃなくてちゃんと余すところなく書きたいし、ビーチ・ボーイズやブライアン・ウィルソンの素晴らしさを伝えたいし、熱量が込もったものはきっと誰かの元に届くはずで、後世に残るんだと言い聞かせ、めっちゃ頑張って書いてる。

でも気を付けなくてはいけないのは、完璧主義は手放す必要があるということ。『SMiLE』は2004年じゃなくて1967年当時に出しておけば大傑作になっていたと思う。

「負け犬」と呼ばれて〜父親からの虐待と著作権の喪失〜

1969年に父親と共作した『Break Away』、けっこう好き。

ブライアンの人生は、父親マリー・ウィルソンの支配的な影響によっても大きく形作られた。マリーは自身もソングライターを目指した経験を活かしビーチ・ボーイズの初期の成功をマネジメントしたが、子供を通して自らの目標を達成し鬱憤を晴らす典型的な毒親で、ブライアンを「負け犬」と呼び、厳しい批判や時には暴力的な態度で彼を追い詰めた。ブライアンは父親の承認を求めて音楽を作り続けたが、その過程で自尊心は蝕まれた。

父親の横暴で、とりわけブライアンを傷付けた出来事がある。ビーチ・ボーイズの初期の名曲はウィルソン兄弟が設立した音楽出版社が権利をもっていた(ブライアンは端的に「自分がもっている」と思っていた)。けれども、マネージャーだった父親は息子たちについに解雇された腹いせに、ブライアンの署名を偽造し曲の100%の権利をわずか70万ドルで他人に売り払ってしまった。そのことをブライアンは次のように語っている。

「70万ドル?曲をタダで渡すようなものだ。今では2000万ドル以上の評価を受けている。しかし僕にとっては、それは金で買える類のものではなかった。それは僕の赤ん坊だった。僕の肉体だった。魂だった。そしていま、それはもう僕のものではなかった。」(『ブライアン・ウィルソン自叙伝』より)

しかしそんなひどい仕打ちを受けた後も父子の関係は複雑なまま続いた。マリーはマネージャーを解雇された後も、ビーチ・ボーイズそっくりのバンド『サンレイズ』を立ち上げプロデュースしたりと、しぶとく音楽活動を続けた。1969年には晩年のマリーとブライアンの父子共作『Break Away』(1969年)を発売、2人の間に奇妙な絆を残した。

1973年のマリーの死後、ブライアンは父を振り返り、「父さんがやることはなんでもかんでも迫力があった。いつも真剣勝負だった。ものすごいパワーだったよ」と語った。この言葉には、恐怖と尊敬が混在するブライアンの複雑な感情が表れている。

デニスとカール、2人の弟の喪失

上から長男ブライアン、三男カール、次男デニスのウィルソン3兄弟
上手いとか下手じゃなく、味わい深くグッとくるデニスのボーカル

ブライアンは、弟デニスとカールの早すぎる死によって更に深い傷を負った。ドラムの次男デニスはハンサムなルックスとワイルドな魅力でバンドの人気を牽引。ビーチ・ボーイズ唯一のサーファーであり、初期のヒット曲にインスピレーションを与えた存在だった。しかし彼のアルコールと薬物の問題は深刻で、また後に連続殺人事件を起こすカルト教祖チャールズ・マンソンと知り合ったことでマンソンファミリーに自宅を乗っ取られ脅迫される恐怖体験も晩年のデニスの人生に暗い影を落とした。ソロ活動では高い評価を受けたが、その音楽性は明るい魅力はほどんど見られず、ロマンチックではあるが時に憂鬱で自己嫌悪に陥る繊細で不安な一面が反映されていた。

そして1983年、デニスは39歳の若さで泥酔し冬の海で溺死するという悲劇的な最期を迎えた。性格は正反対でも誰よりも兄の才能を信じ、いつでも味方に立っていたデニス。彼はかつてこう語っていた。「初期の成功につけこもうとする一部の知的恐竜たちのせいで、ブライアンの素晴らしい才能はアメリカで十分に評価されず、グループの可能性は潰されてしまった。[…] もしビートルズがこのような誤解を受けていたなら、『プリーズ・プリーズ・ミー』や『抱きしめたい』を歌い、ビートルズの衣装を着て飛び跳ねる以上のことはできなかっただろう」

ビーチ・ボーイズのメンバーで従兄弟マイク・ラヴの娘と再婚し息子をもうけたデニス。…え?私生活は波乱だったけど、ピアノ一本で歌う『You Are So Beautiful』、胸をうたれました。

末っ子のカールは穏やかな性格でバンドメンバーの仲を取り持っていた。ブライアンの音楽ビジョンも支える重要な存在だったが、1997年に末期の肺がんを患い(カールは10代前半から喫煙していた)、懸命に治療を受けながらコンサートにも立つも、翌年の2月に51歳で亡くなってしまう。カールの温厚さと美しいボーカルはビーチ・ボーイズのハーモニーに欠かせない要素だった。カールの死を機に、アル・ジャーディンがビーチ・ボーイズを脱退してしまうほどに。

ブライアンは後にカールとのスタジオでの時間を「家族の絆そのものだった」と振り返り、弟の死を「心の一部を失ったよう」と表現。2人の弟たちの喪失は、ブライアンの人生に深い孤独感をもたらした。

のびのびとした透き通る高音、カールのボーカルは本当に気持ち良い!

従兄弟マイク・ラヴとの複雑な関係

楽器を弾かず踊ったり身振り手振りするのがマイクのスタイル。『大人になったら』っていうこの曲、バックコーラスで年齢をコールしていくのだけど14歳から始まりあっという間に32歳になって終わっちゃうのが儚くって好き。

従兄弟のマイク・ラヴは、ビーチ・ボーイズのリードボーカリストとしてバンドの陽気なイメージを牽引し、初期のヒット曲の作詞ではマイクが重要な役割を果たしバンドの成功をもたらした。

しかし、ブライアンが『Pet Sounds』や『SMiLE』で芸術性を追求した際、マイクは商業性を重視し今までのビーチ・ボーイズの明るいイメージが崩れることを危惧、2人の間に緊張が生じた。特に『SMiLE』の制作中、マイクはプロジェクトの複雑さや陰鬱な歌詞に疑問を呈し、ブライアンの実験的な方向性に反対。この対立はバンド内の亀裂を深めた。(後にPet Soundsが評論家から高い評価を受けるとマイクの評価も良いものに変わり、今では自分のライブで歌ったりしている)

いるね。一番上に、大谷の愛犬デコピンみたいな犬が。

1970年代以降も、マイクはビーチ・ボーイズをツアーや新作で表に立って引っ張り続けたが、ブライアンとの関係は時に冷え込んだ。90年代には、ビーチ・ボーイズで発表された初期の48曲について「実際には作詞作曲に参加したにもかかわらず、ブライアンが気まぐれで自分をクレジットしなかった」と訴訟を起こし、そのうちの35曲で認められたりした。(この訴訟はビーチボーイズと疎遠になっていたブライアンをバンドに引き戻す目的もあったとか)

それでも、マイクはブライアンの才能を高く評価し、2012年の50周年ツアーでは再び共に活動する姿を見せた。2人の関係は、音楽への情熱と家族の絆で結ばれながらも、創造性と現実の間で揺れ動く複雑なものだった。

2012年、久々にビーチボーイズの面々が一堂に集い胸熱のアコースティック・セッション!

精神疾患、洗脳に苦しみながら、未発表アルバム『Adult/Child』で見せた創造性

未発表アルバム『Adult/Child』から、シナトラのような往年の歌手が歌うことを想定された『Life Is For The Living』。陽気さの中に狂気をはらみつつも、めっちゃいい曲。

ブライアンの人生は、うつ病、薬物依存、統合失調症、洗脳との長い闘いの歴史でもある。1960年代後半、過労、プレッシャー、薬物乱用が重なり、幻聴や不安発作に悩まされた。『SMiLE』の失敗後、ブライアンは表だった音楽活動から離れ、1970年代から80年代にかけてほぼ引きこもり状態に。

心理療法士ユージン・ランディは、ブライアンの薬物依存、過食、引きこもり傾向を治療するため「24時間セラピー」を開始。このプログラムは、ブライアンの生活を徹底的に管理し、食事、運動、社交活動を監視する過激な手法だった。ランディによる治療は洗脳まがいの支配的なもので、ブライアンの回復を遅らせた。ランディはブライアンを薬漬けにして生活を完全に管理、ビジネス・パートナーとして創作活動にも介入し、ビーチ・ボーイズのメンバーからも孤立させた。

ランディからの強い勧めもあり、ブライアンは1977年にニューアルバムの制作に取り掛かっている。フランク・シナトラが歌うような時代遅れのビッグバンドスタイルや風変わりな歌詞が特徴的な異色作『Adult/Child』は、レコード会社やバンドメンバーからあまりに奇妙で売れないと判断され発売が見送られた。『Adult/Child』というタイトルはランディに由来するとされ、ブライアンは「彼が言いたかったのは、人格には常に二つの側面があるということだ。常に主導権を握りたがる大人と、世話をしてもらいたい子供、常に自分はルールを知っていると思っている大人と、ルールを学びながら試している子供だ。」と語っている。

奇妙な夢のようで悲しくて美しくてすごくいい『Still I Dream Of It』

『Adult/Child』は未発表でありながら、長い闘病と洗脳によって壊れかけたブライアンの、ユーモアと悲しみが真に独創的に融合したアウトサイダー・ミュージックとして高く評価する者も多い。音楽評論家のデイトンは本作を「どの曲も中毒性のあるキャッチーさで、おそらく人類史上最も悲しいバラードと言えるだろう。そして、狂気じみた名曲のカバー曲もいくつか収録されている。」と評している。

ブライアンは長きにわたる闘病と洗脳で不遇の時代が続いたが、1980年代後半には後妻メリンダや支援者の献身により、ようやくランディの支配から解放され、1990年代以降は徐々に復帰。2004年の『SMiLE』完成やソロ活動は、彼の精神的な回復と音楽への情熱の証明だった。

ビーチ・ボーイズのリバイバルブーム〜日本でも村上春樹が広めた

ビーチ・ボーイズは、1974年のコンピレーションアルバム『Endless Summer』の大ヒットで最初のリバイバルブームを迎えた。このアルバムは初期の楽曲を再評価され全米1位を獲得。1976年の『Spirit of America』も同様に人気を博し、バンドのクラシックな魅力が新たな世代に広がった。

日本ではベストセラー作家の村上春樹が物語やエッセイにビーチ・ボーイズを多く取り上げたことで、ビーチ・ボーイズ人気の裾野を広げることに繋がった。村上春樹の1979年のデビュー作『風の歌を聴け』では、『California Girls』が物語の情感を高める重要なモチーフとして登場するし、1988年の長編『ダンス・ダンス・ダンス』の中でもビーチ・ボーイズの楽曲やイメージが効果的に用いられた。

村上春樹は従来の日本文学とは一線を画す、軽やかな文体と若者の感性や現代の孤独を捉えた独自の作風で文学界に新風を吹き込んだ作家だ。彼の作品は瞬く間に読者の心を掴み、若者から知識人まで幅広い支持を集めて一躍超人気作家へと駆け上がった。その村上ワールドにおいて、ビーチ・ボーイズは単なる背景音楽を超え、登場人物の心情や時代の空気を象徴するアイテムとして機能した。ビーチ・ボーイズは村上の物語に漂う青春の輝きやノスタルジー、自由への憧れを増幅させ、日本において単なるミュージシャンの枠を超えた文化的アイコンとしての地位を築いたと言える。

ブライアンの天才性:音楽関係者やアーティストも絶賛

珍しく跳ねたリズムが楽しい『Soulful Old Man Sunshine』。ビーチ・ボーイズには隠れた名曲がたくさんある。

ブライアンのソングライティングは、何がそんなにすごいのか?音楽理論が良く分からない私だから、著名な人たちの言葉をそのまま並べてみる。

ヴァン・ダイク・パークス(ソングライター)「ブライアンは模倣者ではなく、発明家だった。曲を書かない人には、彼がどれほど発明家だったのか理解するのは難しい」「ブライアンは音楽を漫画のように親しみやすくしながらも、バッハのように何度も聴く価値のあるものにした」

グスターボ・ドゥダメル(クラシック指揮者)「マーラーやシューベルトの曲と同じレベルにある。」

ドン・ウォズ(音楽プロデューサーでブルーノート社長)「彼は誰も使ったことのない音の組み合わせを編み出した。これまでにない響きを生み出す力を持っていた。彼が天才と呼ばれる理由の一つはこれだよ。40年以上創作活動をしてきたが、彼がどうやって作ったのか全く分からない。誰にも分からないんだよ。」

アル・ジャーディン(ブライアンの高校の同級生で165cnと小柄なところに私が親しみを感じるビーチ・ボーイズのメンバー)
追悼文「ブライアンと接した人は誰でも、彼から強い影響を受けた。彼は誰もが持っている同じ音符を使って、新しい音楽の言語を作り出したからね。彼は面白く、賢く、そしてとても謙虚な人だった。」

エルトン・ジョン「彼は、ティンパニや木管楽器などオーケストラを駆使したんだ。それまでのやり方を捨てて新しいものを生み出した。」

追悼文「私にとって、ブライアンはソングライターとしての最大のインスピレーションでした。彼はまさに音楽の天才であり、革命児だった。ソングライティングの常識を根底から覆し、音楽の未来を形作った人。本物の“巨人”でした。」

ブルース・スプリングスティーン「非常に複雑な構成なのに聴いてみるとすんなりと耳に入ってくる。音楽の技術と感性の面で、彼を超える人はまだいないと思う。」

追悼文「ブライアン・ウィルソンは、ポップミュージック史において最も創造的で革新的な声の持ち主であり、まるで異世界からの贈り物のようなハーモニーの感覚を備えた天才でした。そして同時に、アメリカが誇る最強のバンド、ビーチ・ボーイズのヴィジョナリーなリーダーでもありました。もしビーチ・ボーイズが存在しなかったら、“Racing in the Street”も生まれていなかったでしょう。ビーチ・ボーイズ最後のアルバム『That’s Why God Made the Radio』に収録された “Summer’s Gone” を聴いてみてください――そして涙してください。」

ショーン・オノ・レノン(ジョンレノンとオノヨーコの息子)
追悼文「「僕のことをよく知る人なら、ブライアン・ウィルソンの訃報を聞いて、どれほど僕の心が打ちひしがれているか分かってくれると思う。これほどまでに僕に影響を与えた人は、他にそう多くはいない。彼に会い、少しでも時間を共に過ごせたことは、本当に幸運だったと思っている。ブライアンはいつも優しく、惜しみなく心を分け与えてくれる人だった。彼は僕たちの“アメリカのモーツァルト”。この世のものとは思えない、唯一無二の天才だった。」

ポール・マッカートニー「『God Only Knows』、あれは名曲だと思う。ある意味では“あの曲を書いたのは自分だったらよかったのに”と思うけど」「本当に素晴らしい曲で、大好きなんだ。最近、日本のラジオ局のために“好きな曲ベスト10”を挙げてくれって頼まれたんだけど、あまり深く考えずにね。」「そのリストの一番上に『God Only Knows』を入れたんだ。(少し考えて)すごく深い曲だよね。(歌詞を引用して)すごく感情に訴えてくる。僕にとっては、いつも少しグッとくる曲なんだよ。そういうふうに心に響く曲っていくつかあるんだけど、それはもう、不思議な取り合わせさ。でも、この曲はその中でも上位に入るよ。」

追悼文「ブライアンには、曲に特別な魅力を与える神秘的な音楽的才能があった。彼が頭の中で聴き、私たちに伝えた音はシンプルでありながら輝いていた。僕は彼を愛し、その輝かしい光のそばでしばらく過ごすことができたことを光栄に思います。ブライアン・ウィルソンを失った後、僕たちはどのようにやっていけばいいのか、それは“神のみぞ知る”です。ありがとうブライアン。」

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ただのエンタメじゃなくて、芸術。後世に残る音楽って、やっぱ他とは違うんだな。シンガーソングライターとしては、そんな風に時代を超えても愛される普遍的な芸術作品をたくさん世に送り出したブライアンを尊敬すると共に、その天才性に憧れてやまない。

日本版CDでは村上春樹がライナーノーツを書いた2002年のベストアルバムから『The Warmth of the Sun』

ブライアンへ、マイク・ラヴからの追悼メッセージ

ブライアンが亡くなった後、彼と親交のあった人たちによる多くの追悼メッセージが溢れた。中でも長年にわたり確執があった従兄弟の84歳になるマイク・ラヴが誰よりもリスペクトに溢れた濃い追悼メッセージを残していたから紹介したい。それは彼の商業主義的ポーズなのかもしれないけど、やっぱり長年ビーチボーイズというバンドを引っ張り表に立って回し続けているリーダー、マイクってすごいんだなって思った。こういう時にこういうメッセージをすぐに書けるって。(亡くなった当日に、、)

それからマイクは、アルコールやドラッグやタバコで体を壊した従兄弟たちと違いクリーンで健康的な生活を送り、1967年にビートルズのジョージ・ハリソンらとインドに行き瞑想の師に出会って以降、毎日瞑想しているという。結局そういうのって長く続ける上でとても大事なことなのかもしれない。

今日、世界は天才を失い、私は血のつながった従兄弟であり、音楽のパートナーを失いました。

ブライアン・ウィルソンはビーチ・ボーイズの要であるだけでなく、私たちのサウンドの魂そのものでした。子供の頃に初めてリビングルームで一緒に歌った時から、彼の中にはこの世のものとは思えない何かがあると感じていました。彼の音楽の才能は比類なきものでした。彼が生み出したメロディー、すべての音に注ぎ込んだ感情‥‥ブライアンは音楽シーンの潮流を完全に変えました。

私たちの旅は、輝きと悲しみと笑いと複雑さ、そして何よりも愛に満ちたものでした。どんな家族もそうであるように、良い時も悪い時もありました。それでもどんな時も、私たちはお互いを愛し続けることをやめませんでした。彼がピアノの前に座った時やスタジオで即興的に見せた才能に、私は常に畏敬の念を抱き続けていました。

ブライアン独自の芸術性と私たちの共同作業は、世界中にアメリカン・ドリームの楽観主義、喜び、自由を届けました。人々を幸せな気分にし、終わりなき夏と無限の可能性を信じさせる音楽でした。彼と共にその創造的な瞬間を体験できたことは、私の人生における最大の祝福の一つでした。

世界中に、太陽の光、サーフィン、そしてティーンエイジの夢を信じさせることができたことは、私たちの誇りです。私の生涯は『Pet Sounds』、『God Only Knows』、『In My Room』、『Good Vibrations』、『The Warmth of the Sun』を始め、彼の魂が込められた数々の音楽作品によって永遠に変わりました。彼のおかげで私たちは、弱さと輝きが調和した音楽とはどんなものかを世界に示すことができました。彼は繊細で、情熱的で、ユーモアに溢れていました。まさに唯一無二の存在でした。

妻のジャクリーンと私は心が張り裂けそうです。彼女はこの物語の多くの章で私のそばにいてくれました。私たちはブライアンの家族、彼の子供たち、そして彼の人生と才能に触れたすべての方々に、愛と祈りを送ります。

ブライアン、あなたはかつて「もし僕たちがもっと年をとっていたら素敵じゃないか?」と問いかけたよね。今、あなたは時を超えた存在となりました。あなたが作り出した天国のような音楽に包まれ、あなたにふさわしい安らかな眠りにつくことができますように。あなたの魂が、あのファルセットの歌声のように高く舞い上がり、翼を広げはばたくことを願っています。

ハーモニーと、思い出と、愛をありがとう。死は誰にも癒せない心の痛みを残し、愛は誰にも奪えない記憶を残します。

永遠に君を想い続けます、愛する従兄弟よ。

マイク

ありがとう、ブライアン。

ブライアンの人生は、類稀なる才能の輝きと引き換えに、強烈な影も併せ持ったコントラストの強いものだった。父親からの虐待、弟のデニスやカールの早すぎる死、従兄弟マイクとの確執、そして自身の精神疾患との闘い。だけど彼は音楽でまた立ち上がった。

ハタチの頃、引きこもり鬱屈とした私の心を救ってくれたブライアン。彼もほぼ引きこもりのような状態が長年続いたけど、最後まで自分の才能を、音楽を諦めなかった。そのことが私の心を灯す。ブライアンに比べたら私は闇がなければ光もない、ぼんやりした変わり映えのない平坦な人生だけど、それでも、今からでも、いつからでも、やれるんだ。挫かれても、萎れても、まだ終わりじゃない。諦めずに続けていれば、いつか日の目を見る時が来るかもしれないって。

ブライアンが生み出した『Wouldn’t It Be Nice』を始めとする美しい曲の数々は、純粋すぎるがゆえに脆く傷つきやすかった彼の魂の輝き。

恋も、人生も、完璧じゃなくても、素敵じゃないか?って囁いてる。

ブライアン、ありがとう。

あなたの遺した珠玉の曲たちは、これからも私の心のビーチで響きわたるよ。

Wouldn’t it be nice if we were older
Then we wouldn’t have to wait so long
素敵じゃないか?僕らがもっと大人だったら
こんな待たなくったっていいんだよ
And wouldn’t it be nice to live together
In the kind of world where we belong
素敵じゃないか?

僕らのいるこの世界で一緒に暮らせたら


You know it’s gonna make it that much better
When we can say goodnight and stay together
おやすみを言い合って、いっしょに眠れたら、最高だよね


Wouldn’t it be nice if we could wake up
In the morning when the day is new?
素敵じゃないか?

二人で朝、目を覚まして新しい一日を始められたら

And after having spent the day together

Hold each other close the whole night through
それで一日中いっしょに過ごした後

夜はずっと抱きしめ合っていられたら

 ArispiA