2019年5月1日、平成が終わり、令和となった。
節目、節目、隙あらばいつでも生まれ変わりたい願望を持ってる自分は、漠然とこの世紀の瞬間に大きな期待を寄せていたのだけど、結局なんにもしないまま過ぎ去ってしまった。
世間が浮かれる10連休は、8日間にわたってビル内の引越しバイト。
汗にまみれてひたすらダンボールやら机やらを運んでた。
東京駅やスカイツリーも望める一等地の高層ビルで、エリートたちが働くオフィスのレイアウトを作るお仕事。
自分の人生とは程遠いところにある、そこで働く人たちの順風満帆な人生に想いを馳せながら。
でも部活みたいで楽しかったな。
おそろいの水色のポロシャツ着て、支給されたお弁当食べて。
みんな気のいい人たちだったし、5月の初めの爽やかな気候の中、穏やかに時は過ぎてった。
「令和になった瞬間、何してた?ってなったら、このバイトのこと思い出すんだろうな」と言う人がいた。本当にそうなんだろうと思った。
そして、それを思い出すであろう、10年後、20年後、なにしてんのかなぁ、と思った。
エリートはある程度人生設計が確立してて、しっかりしたヴィジョンが浮かぶんだろうけど、私はなにしてるのかなぁ、って。
全然未来は見えなかった。
そういうことを言うと、そんなんでどうするの?などと言ってくる人もいるけど、私の人生なので、そこは。
生活の質に関しては身の丈を超えてはいけないと思うけど、こと夢に関しては、空気読む必要なんてなくて、貫いたもん勝ちっていうか。
それで冷笑されたり失敗したとしても、その経験は数十年後を暖かく照らすともし火になるんじゃないかなって。ともし火のない老年期は後悔に彩られていて侘しいんじゃないかなって、そんな想像をする。
問題は、今、しっかりと夢らしき夢を追えてないことにあるんだろうな。
結果じゃなくて、道程。
生きたい生き方を、なりたいイメージを、毎日追えているのかという問い。
「令和からは、仕事のあり方も働き方も大きく変わる。自分の才能をいかしたことでしか、うまくいかないようになる。」と言う人がいた。
終身雇用も崩れ、AIが仕事の大半を担い、ベーシックインカムが導入され、今ほど働かなくてもよくなって、好きなことをしなかった人が大きく後悔する時代が来る、という予感は私の中に確信に変わりつつある。
根拠のない自信があるのだけど、それを声高に言うと怒られそうなので、言わないでいた。
でも、令和になってほどなく、私は一体何をそんなに怯えているのだろう、とはたと気づくきっかけがあった。
親でも上司でもない人に怒られる、または批判されることに怯えるって、何かおかしくないか。迷惑かけたらそれも仕方ないかもしれないけど、それにしたって節度というものがあるのではないか。感情の昂ぶるままに振りかざされた言葉の刃で必要以上に傷つけられることをこれ以上許す必要があるのだろうか?
私の付き合う人というのは、自分で選べるのではないか。
今後は絶対的にもう、毅然と選んでいくべきなんじゃないか。
そういったことに、雷に打たれるみたいにガーンと気づかされる出来事があったのです。