Aから始まる病気とAから始まるピアノ

またまたどうして考えがまとまらず、作文に向き合えず、8ヶ月ぶりの更新になってしまいました。。お久しぶりです、ArispiAです。ArispiAの大文字のAは猫耳のAです。(両手ピースサインを逆さにして猫耳ポーズ)

『ArispiA』って名乗るの恥ずかしいから改名しようかなってこれまでに幾度となく思ったけど、やっぱり猫耳みたいな大文字の『A』の形がとってもかわいくて、気に入っていて、離れがたく、今に至ります。

ところで、私には以前から密かに恐れていることがあります。

それはAから始まる病気のことです。でも、私はこれまで、その病気について口にしたり、その名前をどこかに書き記すことを注意深く避けてきました。事あるごとにAから始まる病気のことを調べたり、ふとした時に考えてしまうくせに、その名前をなにか忌まわしきものとして封印していて、文字に書き起こしたりでもしたらその病気に目を付けられてしまうんじゃないかって気がしてしまうくらい、怖くてたまらなかったんです。

それが愚かな行為というのは薄々感じていました。世の暗部や不条理、苦しむ人々を全く存在しないかのように無視して、甘美で優しく口当たりの良いものだけを周りにはべらせておく人間のズルさ、薄っぺらさみたいなのってあるんだろうな、と。

ヘタにそのことについて語ることは、当事者の方に対して失礼にあたるかもしれない、という思いもありました。でもそんなことはないんですよね。たとえネガティブな心情の吐露であったとしても、無視よりはよっぽどいい。日々の戯言の合間に、誰もが普通に戦争や殺戮や病気や貧困について語り出すようになったら、世界は今よりずいぶんマシになるかもしれない。

封印は毒、無視は罪かもしれない。

だから今日はその病気について話します。

Aから始まる病気の名前は、『ALS』です。

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22歳の冬。大学を留年することが決まった年の初めのことだった。片方のまぶたがかすかにピクピクッと痙攣するのを感じた。最初は「あれっ?疲れてんのかな」と思う程度だったのに、それはすぐに両方のまぶたに広がり、ことあるごとにピクつくようになった。しばらくして、今度は目以外の箇所、二の腕だかが初めてピクッと痙攣した。この時ゾッとして、これは一体全体どうしたんだろうと、パソコンで検索をしたところ、ALSがヒットした。Aから始まる病気の初期症状が、筋肉の繊維束収縮(ぴくつき)というものだった。

その病気のことはテレビなどで見聞きし、なんとなく知っていた。数年をかけてゆっくり、でも確実に、全身が動かなくなっていく病気。最終的には呼吸もままならなくなり、気管切開をし人工呼吸器を装着し、食べることも喋ることもできなくなり、寝たきりで、眼球の動きによってのみ意思を伝えることになる病気。

未だ原因が解明されておらず、人生の中途でいつともなく発症し、発症してしまったら、進行スピードに個人差があっても決して完治することはなく、回復することもない病気。

手が、足が、口が、だんだん、でも確実に、数年で動かせなくなって、自分一人では何もできなくなり、歩くことも喋ることも食べることも、ついには呼吸すらできなくなるなんて。

私の精神進状態はそこであっけなく崩壊し、心は恐怖に支配された。そこから数日でピクつきは全身に及ぶ。足からお尻から背中からお腹から身体中にすべての箇所の筋肉がピクピクピクピクっと痙攣するようになり、特に寝ている時、足の裏側がピクピク大合唱で火照るように熱く感じた。

ついには立っていると足がつっぱって、歩くことも辛くなってしまった。

当時の私は闇期で、実家にいながら、大学にほとんど通わずアルバイトもせず部屋に引きこもって昼夜逆転で、宗教を信じる家族に悪態をつきながら、なぜか真冬でもエアコンを付けずに服を着込んで震えながらカップラーメンやスナック菓子を食べながら映画を見て漫画を描くという、荒んだ生活を続けていた。

今まで何の感謝もなく好き勝手、自他共に傷めつけながら生きてきたツケが回ったのだろうか、という後悔の気持ちでいっぱいになった。

どんどんおかしくなっていく身体と、病気の恐怖にとても耐えきれなくなり、自室を出て、ガクガク震える足で家族の集まる暖かい1階のリビングに下りてきて、泣きながら弱音を吐いたんだった。

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そこから性格が180度変わってしまったかのようだった。反発心だらけの尊大な振る舞いは息をひそめ、急にしおらしくなり、両親と一緒の部屋で眠り、いつもべったりそばにくっついて、家族に言われるがまま宗教施設にも行き、毎日そこの神様に祈るようになった。

一心に祈った内容の主軸は、「病気じゃなかったら、私は私のこの身を使って精一杯世のため人のために尽くします。」というようなものだった。

病気になったり、病気の可能性を突きつけられた時、人はこのような祈りを捧げるんだな、と思った。健康なうちはそんな考えはちっともよぎらないくせに、随分と都合がいいとは思う。

すべての病気が治るものだったらいいのに。そしたら定期的に病気になることが心を入れ替える良いきっかけになるのに。

でも、もし病気が必ず治るものだったら、そのことを知っている人間は、「どうせ治るし」とたかをくくって、真に心を入れ替えることなどできないのかもしれない。

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結局、病院に行っていろいろ検査しても原因はわからずじまいだった。検査結果が出て、「病気の心配はないと思います」と言われた時の、黒い雲間に一筋の光が差し込んだような安堵感は今だに覚えている。

それでも足がつっぱるような症状はなかなか良くならず、根底に渦巻く不安は取りきれなかった。留年し再び大学に通い出した春、私は神経内科から精神神経科に回され通うようになった。そこでは、緊張や筋肉の強張りをほぐす効果があるという『デパス』と『メチコバール』という名前の薬を処方された。

そうして、その薬を飲んでいるうち、少しずつ、少しずつ、不安症状はやわらぎ、夏頃に通院を終えたんだった。

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あのことをきっかけに、自分の性格や価値観がかなり変わったと思う。でも、あの時誓った「病気じゃなかったら、この動く体で、世のため人のため精一杯生きます」という崇高な思いは、日常を取り戻すにつれだんだんと薄れていった。

宗教はしばらく続けたけど、また新たな疑念が湧き出るようになり、宗教よりスピリチュアルに傾倒するようになっていった。そして今ではそれらがすべてなんか嘘臭くなり、生身の人間の言葉とか、生身の人間の生活を信じるようになった。

ああ、でも。

「病気じゃなかったら、この動く体で、世のため人のため精一杯生きます」という切なる願い。

きっと、そこまで大仰なものだと継続しない。でも、日々の暮らしに添えるように、ささやかに、ずっと持つべき誓いなんだ。

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生まれ変わりを信じている私は、何千回何万回と生まれ変わる中で病気になる人生もあると思っている。

でももし今世で自分がALSになったら。そのことを想像するのはとても辛い。考えたくない。怖い。そして、そういう気持ちを書くことは、ALSの人やALSの周りの人にとって失礼なことだ。だから書かない。話題にするのを避けよう。ないものとして扱う。ALSは私の生活にはまったく無関係の、ないものとして。それが正直な私の気持ちだった。けれど。

ここにひとつの希望がある。私が作った仮説なのだけど聞いてほしい。

「世界中の人々がタッグを組み知恵を出し合って全力で研究した時、すべて難病や癌の治療法が解明する手筈になっているのだけど、殺し合い歪み合いしているうちは、クジで選ばれた人が病気で苦しむシステムは終わらない。」

もしかして、神様はそんな風に世の中を仕組んでいるのではないか。

長い歴史の中で、人間の倫理観は向上し続け、昔は当たり前だった人種差別や人権侵害が、どんどん淘汰されていっていると思っていた。けれど、昨今のウクライナ情勢によって今だに殺し合い歪み合いをしている現実を突きつけられて、目が覚める思いがした。

そんな馬鹿らしい戦争なんて今すぐやめて、世界中の人々が手を組んで、病気の研究をしたり、社会の不平等をなくすために全力で取り組めば、地球は天国になるのに。一部の人が独り占めして使いきれないほど余っている土地やお金を全ての人に公平に行き渡らせて、誰もがいつからでも望む教育を受け、望む家に住み、特技を活かして好きなことを仕事にしたら、芸術や文明が開花して、美しく素敵な物事であふれ、たっぷり休めるからストレスがなくなり、そうすると周りの人にも優しくできて、自由な時間で気の合う仲間と談笑して、個性を尊重し励まし合い、誰も苦しまず、健康に生きて、思い残すことは何もなく安楽のままに死ねるのに。

ALSをはじめ、すべての難病の治療法が解明する時は、必ず来る。

とにかく、戦争をやめて。殺し合いをやめて。奪い合わないで助け合うこと。一人一人にできることとしては、認めること。優しい声をかけること。誰かが憎しみの塊や自暴自棄になってしまう前に、音楽が救いになるとしたら?漫画や動画や文章が気休めになるかもしれない。

「偽善者」と言われ傷ついたことがあるので、こういうことをあまり言わないようにしてきた。でも、そんな風に言ってくる人からは離れればいいだけだった。自分を傷つけてくるような人がいたら、全力で逃げる。周りに言いふらしたり、その反対に無反応も有効だ。ちゃんと主張してもいいけど、その人を改心させようとかどうこうしようと思わない。自分が一番大事、いちばん守るべきものは自分の心でいい。これは声を大にして言いたい。

そのあと余裕があったら、理想の実現に向けてなにかしらの行動を起こしていけばいいのだと思う。

そうしていくうち、すべての怖い病気がなくなる時代が来る。

平和で、誰も傷つけず、みんなが自由にストレスなく、好きなことに専念できるユートピアが訪れる。

それが希望。

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去る4月17日の日曜日、実に5年ぶりのライブをしてきました。

Atlasというめちゃんこかわいいピアノのある、『三鷹おんがくのじかん』。

そこで、金色に刻印された美しい『Atlas』のロゴを見て、『AtlaspiA』だね〜と思うと同時に、『ALS』がふと頭によぎったわけです。それで、今回ブログに書いたわけです。その二つを繋げるのはちょっと違うんじゃないかとも思ったけど、ALSの話はやっぱやめようかなと何度も躊躇したけど、この場所はやっぱり、私が私のこんがらがった頭を整理し、奥底まで掘り起こし、近しい人に見られたら恥ずかしくてたまらない密度で、今どき誰もやらないような長い文章を書き記すための場所なので、勇気を出して書いた。

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アトラス(Atlas):ギリシャ神話に登場する神の名前で、世界の西の果てで苦痛に耐えながらもじっと「天空」を背負っているんだそうだ。

かの有名なヘラクレスに一時、自分の代わりに天空を支えてもらうことに成功するも、自由の身になったのは束の間、再びアトラスはヘラクレスに騙されて天空を背負わされるハメになる。

ああ、私も、みんなも、生まれてこの方ずっと、アトラスに支えられてたんだ。アトラスにとっては、自由に使える手と足がある私たち地球人がどれだけ羨ましいことか。巨大な天空をずっと支えてろなんて超迷惑なミッションを命じられてるわけでもなく、今の私には自由に動く手と足がある。なんだってできるはずなのに、何をそんな躊躇してるんだろう。もったいない。

もったいない。

「アトラス、アトラス、、あとラストまで、何回あるのかな?」
それは例えば、ライブ。人生であと何回できるの?

あとラストまで、何曲作れるの?

ラストまで、あと何日。

ArispiA、ALS、Atlas、AtlaspiA、ADHD、AI、AreyopiA?

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深夜のテンションで3日前に応募。2日前の直前告知だったこともあり、『おんがくのじかん』での5年ぶり(!)ライブは、お客さんは0人で、私と、共演のカラス語さんと、店長の菊池さんの3人だけだった。でも、ライブが始まる前と終わった後、3人で音楽の話をたくさんできて、かえってよかったみたい。私は瞳孔が開ききるんじゃないかってくらい興奮しておかしなテンションになってしまった。

ほんとうに久方ぶりにたった一人で乗り込んだライブ。緊張と不安で心がソワソワして、出かける前の練習段階でも全然声が出なくて、ヘロヘロの私にとっては、今回のライブはリハビリとなるたいへん貴重な時間だった。

共演のカラス語さんは、なななんとピッカピカのハタチ。名前から想像するに、もっとうらぶれた影のある感じの方なのか思いきや、まったくもう、くもりなきまなこの優しく純粋な好青年だった。去年の秋から音楽活動を始めたばかりというけど、大人の話に真摯に耳を傾ける素直さと、音楽に対する相当の好奇心と行動力があるから、これからぐんぐん伸びていきそう。眩しいったらない。

そんなカラス語さんからは「なんか、うまく言えないけど、なんかいいですね!」という、ハタチの瑞々しい言葉もらえて、めっちゃうれしかった。

最初はヨレヨレの自分と比較してまた年齢コンプレックスが襲ってきそうになったけど、みんなが普通に優しく対等に接してくれたからか、その日、劣等感は息を潜めていてくれた。もしや年齢とか関係なくない?とすら思えてきた。変な顔もヨレヨレな姿も味やんか、味、と。

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店長の菊池さんからも数々の貴重な言葉をいただいた。
「他の多くのピアノの人とちがってクラシックを通ってない感じの音楽。子供の頃クラシックをやってきた他の人はどうしてもクラシックの要素が入ってきちゃうんだけど、そうじゃない、ポップスの感じ」なるほど、そうかもしれない、これまでたくさんのミュージシャンを見てきた人の言葉には説得力がある。

本当にいいと思ったものしか褒めないと言っていて、それに関しても誠実でいいなと思った。私は褒められなかったけど、「他の人とちょっと違っておもしろい」というようなことは言ってもらえたから、それを前向きに育てていこうと思えた。

最近ピアノやコードを習い始めたと言ったら、「勉強すると曲の面白さが消えちゃうかもしれない」「技術じゃなくて、その人だけが持っている独自性がなにより大事」「技術とかはプロのジャズマンとかには敵わないし、自分は全然そういう上手さには興味がない」(このへん記憶が曖昧でだけど大体こんなニュアンス)と言っていて。あっ、そういう考えの人のもとでやりたいなって思った。

極め付けは、ノルマについて。「ノルマがあると面白い人が来ない」「ミュージュシャンはなんで自分が演奏するのにお金を払うんだっていうくらいの心意気がないと」

・・・あっっっ。ここをホームにやっていきたいっ。。

私にとって「ノルマ」の3文字は、心に重くのしかかるもので、ライブ活動をやめてしまった原因もそこにあって。でもそんな考えは持つべきじゃない、お店の経営のことも考えないとって。ずっとそういう風に思い込んでいたけど、現実、今の私にお金というものはほとんど持ち合わせがなく、家賃を支払うだけで精一杯で。食費を削っている状態で。ノルマ2000円×5で6枚目からチャージバックとかそれだけでもかなり苦しく。。

「ノルマはいらない」そんな風に思ってくれるライブハウスがあったんか、という衝撃。家賃バカ高い吉祥寺で従業員何人も雇ってたらそれは難しいだろうけど、吉祥寺のお隣の三鷹で店主一人で切り盛りしている小さなお店であれば可能なんかな?そうだろうきっと。大丈夫だ、安心していいんだ。三鷹おんがくの時間は、参加費3000円と1ドリンク。5000円はちょっとキツイけど3000円ならなんとか!

というわけで、5月も出ることにした。5/29(日)よろしくお願いします♪

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何度目かの誓い。今現在、自由に動くこの体を使って、精一杯生きることにした。言いたいことを言って、やりたいことをやる。
食べるために働くライスワークではなく、魂を輝かせるライフワークに時間を使えるよう、がんばるんだ。今はそれが原動力。

『ソーダ水みたいな人生』と『千鳥足』という新曲もできた。まだ動く。まだ声が出る。まだ創作していける。まだまだこれからなんだ。

Aから始まる名前でこれからも。

ArispiA

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